非日常的な作業がルーティンに 福島第一、記者が構内へ

写真・図版がれきが手つかずのまま残る1号機(左)と、核燃料の一部とみられる塊が映像で確認された2号機=6日、東京電力福島第一原発、日本記者クラブ取材団代表撮影

東京電力福島第一原発事故から間もなく6年。朝日新聞記者が6日、構内に入った。廃炉に向けた作業環境は改善されてきたが、汚染水の行き場の見通しは立たず、原子炉建屋は依然として無残な姿をさらし、溶けた核燃料の全容も把握できていない。長期化の様相が一層強まっていた。

筆者が事故後、構内に入るのは5回目だ。今回は日本記者クラブ取材団に参加した。線量計を入れたベストとマスクを着けるが、それ以外の服装は普段と変わらない。

1~4号機を見渡せる高台でバスを降りた。80メートルほど先に1号機。東電担当者の線量計は毎時0・149ミリシーベルトを示した。1号機の原子炉建屋放射性物質の飛散を防ぐために事故後にいったんカバーが設置されたが、昨年11月までに取り外された。「天井が崩れ落ちた状態が残っています」と東電担当者。指した先には水素爆発で吹き飛んだ建屋上部の鉄骨がぐにゃりと曲がり、がれきが手つかずのまま残る。

3号機では、原子炉建屋上部にある燃料プールから使用済み燃料を取り出すための作業が進む。かつて鳥の巣のように見えた上部の折れ曲がった鉄骨は撤去された。ただ、建屋の壁側は分厚いコンクリートに亀裂が走り、あちこちで鉄筋がむき出しになっていた。

隣の2号機は爆発を免れたためかろうじて震災前の外観をとどめている。先月、原子炉格納容器内で、原子炉圧力容器から流れ出た溶けた核燃料の一部とみられる塊が映像で確認された。画像の解析から、格納容器内の放射線量は推定で最大毎時530シーベルトと発表された。9日にも別のロボットの作業中断に伴い、推定毎時650シーベルトと発表された。専門家からは、予想外に溶けた核燃料が拡散しているとの見方が出ている。

1999年に茨城県東海村のウラン加工施設「JCO」で起きた臨界事故で、亡くなった作業員2人の推定被曝(ひばく)線量は低い人で6~10シーベルト。これと比べても線量の大きさが分かる。

バスに乗って2号機と3号機のそばを通った。3号機の建屋から数メートルに近づくと、東電担当者が、線量は毎時0・245ミリシーベルトだと告げた。これでもその場に5時間いれば、一般の人が年間に浴びる限度の1ミリシーベルトに達するレベルだ。

がれきの撤去などはクレーンや重機を遠隔で操作して進めている。内部の調査はロボットを使っているが、高い線量に阻まれ一進一退が続く。

敷地内に豊富にあった森林は伐採され、至るところに3階建てほどもある汚染水のタンクが並ぶ。その数約1千基。1~3号機では事故直後から溶けた核燃料を冷やすために注水を続けているうえ、建屋地下には当初より減ったとは言え1日約150トンの地下水などが流れ込み、汚染水になる。これまでにたまった汚染水は約96万トン。どうするかは決まっていない。

一方で、放射性物質が飛び散った敷地の地表をモルタルで覆った結果、放射性物質を口や鼻から取り込むのを防ぐ全面マスクや防護服が必要な区間は減った。「敷地内の9割で作業員は軽い服装で動けるようになった」と内田俊志所長。私が最初に敷地内に入った13年、原子炉建屋に近づくには全面マスクに防護服の重装備が必要で、息苦しくて大変だったことを思えば様変わりしている。1200人を収容できる9階建て大型休憩所や、明るい吹き抜けのビルの事務本館が新築された。労働環境の改善は進む。

本来非日常的な作業がルーティンになりつつある日常。それが逆に、廃炉への道のりの長さを強く感じさせた。(編集委員・服部尚

ASAHI.COM

Rating 3.00 out of 5

No Comments so far.

Leave a Reply

Marquee Powered By Know How Media.