父は大川小の先生だった 児童遺族と向き合う21歳
大川小の旧校舎前で語り合う佐々木奏太さん(右)と佐藤和隆さん。後方は奏太さんの父親が担任をしていた2年生の教室=5日、宮城県石巻市釜谷、福留庸友撮影
亡くなった父は、恨まれていた。子どもたちを、守れなかったから。
近くを流れる北上川から冷たい風が吹きつける。今月5日、仙台市の佐々木奏太さん(21)は、宮城県石巻市の小学校跡地にいた。6年前、ここで何があったのか。震災の話を聞きに来た見学者に語りかける。
「子どもたちと先生の命を、ただの犠牲では終わらせたくない。これからみなさんと、未来のことを考えていきたいと思います」
優しい父は、石巻市立大川小学校の教員だった。2011年3月11日。児童74人、同僚の教職員9人とともに津波にのまれた。自分は隣町の中学3年生。「避難所になっている学校にいるから、お父さんは大丈夫」。1カ月後、北上川の河口付近で、父は見つかった。55歳だった。
高校生のころまでは「一人の遺族である自分」のほうが大きかったかもしれない。遺族説明会は児童の遺族と教職員の遺族で時間をずらして開かれ、教職員の遺族は市役所の裏口から出された。「なぜ分けられているんだろう」と思った。
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