31歳目前に「余命5年」 大切なもの知った女性経営者

写真・図版小崎麻莉絵さん。パソコン手前にあるのが「ヘルプマーク」。赤地に白十字とハートが描かれている=三重県四日市市

約3年前、病気で突然の余命宣告を受けた30代の女性経営者が、外見では分からない病気や障害があることを周囲に知らせる「ヘルプマーク」の普及に取り組んでいる。家族らの支えに幸福を感じながら、「今日一日を大切に」との思いを胸に前へ走り続けている。

「余命は5年です」

2014年8月18日、三重県四日市市の小崎麻莉絵(こざきまりえ)さん(34)は医師から告げられた。骨髄異形成症候群。血液が正常につくれなくなる病気だ。完治にはリスクが高い骨髄移植抗がん剤治療が必要と告げられた。

31歳の誕生日を迎える前日のことだ。「どうやって伝えればいいんだろう」。最初に思い浮かんだのは両親の姿だった。「やっぱコワイ」。その晩、泣きながら日記を書いた。

四日市市出身。県内の大学を卒業後、複数の会社を経て、28歳の時に名古屋市でホームページ制作会社を設立。久々に受けた健康診断で異常が見つかった。

入院後、トイレに行くだけで息切れするようになり、過呼吸が頻繁に起こった。診断が下ったのが約1カ月後だった。

「地獄ですよねー。もうびっくりしましたけど。あはは」。時折、笑顔を見せながら当時を振り返る。

医師の言葉が強く心に残った。「泣いても笑っても同じ5年。できるだけ笑っていきましょうね」

診断の翌日、友人が次々と誕生日を祝ってくれた。母親は「死ぬわけないやん」と励まし、父親はシュークリームを持って毎日見舞いに来た。骨髄を提供できないことを知った弟は悲しそうだった。「本当に大切なものは何か。強く感じるようになった」

ある日、計算した。余命を日数にすると、1825日。5年で死ぬなら最後の300日は闘病で大変なはず。「それまでの1500日は何かにすがったり、悲しんだりする時間じゃない。私の今日がどれだけ素晴らしいかを感じたい」

約1年4カ月、入院と自宅療養を繰り返して病状が安定し、職場復帰した。

かつては東京で大きなオフィスを構えることを夢見ていた。睡眠は1日約3時間。朝早く出社し、夜は経営者の会合に足を運んだ。「自分をいかに大きく見せるかに注力していた」

復帰後、心の鎧(よろい)を脱ぎ捨てた。勤務時間を午前10時半~午後3時に抑え、体調を崩して休むこともあるが、業績は落ち込まなかった。「病気でできないこともある」と伝えると、近くまで出向いてくれる顧客も現れた。「大事な人と長く付き合えば、仕事はそんなに減らない」と気づいた。

今、力を入れるのが「ヘルプマーク」の普及だ。小崎さんも電車で優先席に座ると、お年寄りから「若いのによくそんなところに座るな」と言われた。

そんな時、東京都が12年に導入したヘルプマークを知った。病気を伝える文章とマークを添えた自作のプレートをかばんにつけると、高齢の男性から「頑張ってな」と言われた。

フェイスブックで体験を公開すると、切実なメッセージが来た。「満員電車で押されて人工関節が砕けた」「視覚障害だけど誰も気づいてくれなかった」

昨春、約20人で普及活動の会を発足。寄付を募ってマークをあしらったパスケースを配り、署名活動でマークの導入を働きかけた。三重県愛知県名古屋市が普及へ動き出した。

一昨年、中高一貫校教諭の田中紘成(ひろなり)さん(36)と結婚した。病気になった後で知り合い、最初は交際を断った。でも「今日一日が大事と言う麻莉絵ちゃんが、一緒にいる時に笑顔なのがうれしかった」と話す紘成さんに心を動かされた。

今もめまいや過呼吸に襲われることがあり、昨年末には白血球の値が急に下がった。「そういう日が来るかも」という覚悟はある。

それでも、病気になってから幸せを感じることが多くなった。「命が続く限り、世のため人のために動き、巡り巡って自分がもっとうれしく過ごしていけたら、すてきだと思います」(堀川勝元)

ASAHI.COM

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